ユキヒロ、とカタカナで書くところが私は古いのかもしれない。
ユキヒロ氏がお隠れになってしまった。
↑このアルバムを買ったのはYMOより前。
その頃細野晴臣氏の南国調の曲も好きで、渋谷のヤマハで細野さんの音楽の講義を受けたりしていた。
細野さんは一般の我々にも偉ぶったりせずフランクに質問を受けてくれたりしてとても、それはそれは優しい穏やかで物静かな先生だった。
星野源氏も言っていた様に思うが、理解が浅い者に対しても同じ目線まで下がってきてくれるのだ。いかにもお育ちが良い方。
講座に集まったのも、テーブルに顔を突き合わせて
YMOのブレイク前だったので、生徒はコアな学生5人くらいだったと記憶している。
今にして思えば畏れ多くもかしこくも、細野晴臣氏に師事しようとはなんと怖い物知らずだったのかと思うのだが、ヤマハと同じ道玄坂にあった遠藤賢司の店にカレーを食べに行ってみよう、的なノリだった。
こんな曲を発表なさっていた時代。
ただその頃UFOゲームの音を取り入れた曲のアルバムも出てきて、
あ?これは違う方向に行ってしまった?と思った。YMOの1枚目のアルバムだ。
上記のマーティンデニー風のエキゾチックサウンドを機械的な音に作り替えて行ってしまった。
周りの人に??と思われながらそのまま聞いていたら
なんだか突然YMOとして大ブレイクしてしまい、そこで私は聴かなくなってしまった。
YMO?のアルバムの絵を横尾忠則氏にコンセプトが理解できぬと断られたとか本当かどうか知らぬがどこかで聞いて、そうだよね~とか思っていた。
細野氏の戦略的な曲造りだったのかも?しれないが、3人ともそこで変わって(変えて)しまった。と言うか、詳しい事はわからないけれど、
その頃クラフトワークとかが流行っていて、別のところに居た3人で
実験的にその流れに乗ってみたという印象だった。
詳しい事は知らないが発起人は細野氏だったらしい。一番最初の頃はマーティンデニーを機械音にしてみましたという感じだったから。
細野氏がクラフトワークを好きだったのかな。
今思えばYMOは終着点ではなく、経過点だったと言うか。
2000年までYMOは(再結成時までも)青かったとご本人達も宣っている。
YMO前の教授も六本木のライブハウスとかに見に行っていたが、矢野顕子氏がまだ奥さんでもない時に舞台で教授ととても仲良くし過ぎる状態で、お客さんがシラけてしまうので見かねたユキヒロがわざわざ中に割って入ってくれていた。
そういうところが気の利くユキヒロ氏であった。
YMO時代は好きではないので20年程聴かずにすっ飛ばしてしまい、
次に面白いなと思ったのは2000年頃NHKのどてら姿のYMO。
皆歳をとりトゲトゲしていなくて良かった。
流行っていた頃は流行ったなりの気苦労があったのだろうなーとか思ってしまった。
その数年後また悪ノリでテレビのCMとかに3人で出だしたりしたけれど、
そのあたりはしっとりと大人になったスケッチショーになっていたらしい。
そこからまた全く聴かずに今に至った。
しかしユキヒロ氏が亡くなったと聞いて、久しぶりにYMOより前のアルバムを聴くと
懐かしくてボーカルがとても良いな~と思う。
もうオトボケの細野氏は見る事はできないだろうけれど、さっきラジオでユキヒロ氏の追悼番組を組んでいた。
他の作品も沢山あるだろうに、一番上に乗せたアルバム、 Saravah! から
なんとほんの5曲の中から2曲(個人発表の曲では3曲中2曲!)もかけてくれた。
やっぱりユキヒロの一番のアルバムなんだなーと。
桑田佳祐氏もラジオで Saravah! からだけ流したよ~。やっぱりね。
これなんだよ。
昔のユキヒロのラジオはオシャレな選曲がとても良かった。
軽井沢で出会って、軽井沢でお別れした細野さん。
ユキヒロの、海外のおススメ曲をもっと聴きたかったし
今回SNSで流れたコント「流してます」や「ドラム寿司」みたいな彼も見たかったけれど。
細野さんは仲間が居なくなると湿っぽくはなく
今日は、ユキヒロは宇宙に還って行ったと言っていた。
大瀧詠一の時は、また一緒にやりましょう、と。
若い時から独特な死生観を歌って語っていた細野さんらしい感じでした。
2.セ・シ・ボン/高橋幸宏
3. カムフラージュ/YMO
4. プレゼント/高橋幸宏
5. Stella/スケッチショウ
この曲の様に、星になったユキヒロさん。
お別れの曲はこれ。
洋画劇場風な音楽で、なんだか淀川 長治さんを思い出し。
このStanley Blackをこれから沢山聴いてみようと考えています。